地 区 |
建 物 |
創 建 |
概 要 |
交 通 |
中京区 |
八木邸 |
1809年 |
郷士八木源之丞の離れ座敷だった。
酒乱で素行に問題のあった芹沢鴨が、土方・沖田らによって 粛清された
のもこの八木邸であった。
|
バス停
「壬生寺道」
歩1分 |
〃 |
壬生塚
(壬生寺) |
|
八木邸の隣にあり、ここで新選組隊士たちの軍事訓練が行われていた。
新選組が相撲興行をやったこともある。
ここには近藤勇・芹沢鴨他の碑がある。 |
バス停
「壬生寺道」
歩3分 |
〃 |
中岡慎太郎
寓居跡 |
|
中岡慎太郎は土佐藩を脱藩後、この土佐藩御用達の書林 「菊屋」(鹿野
保兵衛宅)に身を寄せていた。
(今は「あぶらとり紙店になっている。) |
四条河原町
上ル東側 |
〃 |
坂本龍馬
寓居跡 |
|
薩長同盟を成立させた龍馬は幕府に狙われ、木屋町の材木商、酢屋寡兵
方を宿舎として隠れ住んでいた。
現在1階は「創作木工芸酢屋」、龍馬をかくまった2階は 「ギャラリー
龍馬」となっている。 |
木屋町
三条下ル
一筋目西入
ル |
〃 |
池田屋 |
|
元治元年6月、新選組は古高俊太郎を捕らえ、長州・土佐 ・肥後など
尊攘派が勧めていた幕府転覆の計画を白状させ、その陰謀が「池田
屋」で行われていることを察知し、集まっ ていた宮部鼎蔵ら9名を斬
殺、23名を生け捕りにした。
この「池田屋事件」をきっかけに長州藩は挙兵し、「禁門の変」(「蛤
御門の変」) に突入する。
その「池田田事件」の舞台となったのがこの旅館「池田屋」 。
(現在は「池田屋はなの舞」という居酒屋になっている) |
三条小橋
西入ル
北側 |
〃 |
長州屋敷跡 |
|
ここは尊王攘夷派の拠点となり、、「禁門の変」ではこの
邸内から出た火が京都の町を焼き尽くす大火となった。
今は「ホテルオークラ京都」となっており、建物の前には
桂小五郎の像が立っている。 |
地下鉄
「京都
市役所前」
歩1分 |
〃 |
桂小五郎
寓居跡
(旅館「幾松」) |
|
桂小五郎が後に妻の松子とな芸妓の「幾松」と過ごした 屋敷跡。
新選組にたびたび襲撃され、その時の刀傷が残っている。
明治23年から旅館として開業し、その後料理旅館となっていたが、
2022年4月には閉店することとなった。 |
地下鉄
「市役所前」
歩2分 |
〃 |
龍馬・慎太郎
遭難の地碑
(「近江屋」) |
|
以前隠れ住んでいた「酢屋」も幕吏の目が光るようになった ため、土佐
藩出入りの御用商人、醤油商「近江屋」に移り、身を隠していた。
慶応3年(1867年)11月15日ここ近江屋の2階で二人が会談中に刺客に
襲われ無念の最期を遂げた。
刺客は新選組とも「見回り組」とも言われているが真相は謎。
(現在はコンビニエンスストアになっている。) |
河原町
蛸薬師
下ル西側 |
〃 |
土佐藩邸
跡 碑 |
|
ここに江戸期から明治4年まで土佐藩、山内家の藩邸があった。
当初、尊王攘夷派を弾圧したが、坂本龍馬などの尽力で薩長同盟が成立
し、大政奉還を建白するに至った。 |
木屋町
蛸薬師
下ル西側 |
〃 |
彦根藩邸跡 |
|
山崎橋のたもとに「彦根藩邸跡」の碑が立っている。
幕末の彦根藩主は、幕府の大老、井伊直弼。
高瀬川と河原町通りの間にあって、敷地は727坪余りあった。
北面・南面に高瀬川の「舟入」(高瀬舟の出入口)があった。 |
木屋町
三条
下ル西側 |
上京区 |
蛤御門 |
|
正式名は「新在家御門」であったが、宝永の大火(1708年)で御所も
炎上した際、それまで開くことの無かったこの門が、初めて開いたと
いうことで、「焼けて口が開く蛤」に例えて「蛤御門」と呼ばれるよう
になった。
元治元年(1864年)7月19日に勃発した「禁門の変」で最も激しい戦い
が繰り広げられたのが、この「蛤御門」近辺。
現在もこの門には、その当時の生々しい銃弾の跡が残っている。 |
地下鉄
「今出川」
すぐ |
〃 |
薩摩藩邸
跡 碑 |
|
「同志社大学」の敷地一帯は、幕末に薩摩藩邸があったところ。
藩主島津忠義の父、久光(1817〜1887年)は、文久2年(1862年)に
上京して、 藩の尊攘過激派を粛清した。「寺田屋事件」)その翌年
8月18日の政変や、元治元年の「禁門の変」では, 幕府や会津藩たち
と連携して、長州藩を中心とする尊攘勢力を一掃した。
その後坂本龍馬の立ち合いにより薩長同盟が成立したが、その会談の
場所が ここ。
「同志社大学」の校門の前に「薩摩藩邸」の石碑が立って いる。 |
地下鉄
「今出川」
すぐ |
下京区 |
古高俊太郎
邸跡碑 |
|
古高俊太郎は尊王攘夷派の志士ながら、湯浅嘉衛門と名乗り、ここで
古道具 屋「枡屋」を営み、志士たちの活動を助けていた。
それが新選組に知られることとなり、過酷な拷問に耐えかねて 自白した
ことか ら「池田屋事件」へとつながっていった。
この「池田屋事件」が無かったら明治維新は1〜2年遅れていたとも、
逆にこの事件が明治維新を早めることになったとも言われている。 |
四条
河原町
上ル一筋目
東入ル |
伏見区 |
寺田屋 |
|
京都と大阪を結ぶ「三十石舟」の舩宿として発展し、幕末には坂本龍馬
や薩摩 藩の定宿となっていた。
「寺田屋事件」の際、龍馬が泊まっていた「梅の間」が当時のままの
状態で保存 されている。 |
京阪
「中書島」
歩5分 |