京都四次元の旅

<時代別・地区別ガイド>
<幕 末>

             1853年(嘉永6年)、ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本に開港を求めた。

    対応に苦慮した幕府は、今までの方針を変更して朝廷に報告すると共に諸大名や幕臣

         にも意見を述べさせた。

     このことが、朝廷の発言権を高めると共に、諸大名にも幕府に対しての発言の機会を与え、

         更に尊王攘夷・倒幕運動へと突き進むきっかけを与えることとなった。

              

地 区
建 物
創 建
概    要
交  通
中京区
八木邸 
1809年
 郷士八木源之丞の離れ座敷だった。

 酒乱で素行に問題のあった芹沢鴨が、土方・沖田らによって 粛清された

  のもこの八木邸であった。

 
バス停

「壬生寺道」

歩1分
壬生塚

(壬生寺)

 八木邸の隣にあり、ここで新選組隊士たちの軍事訓練が行われていた。

 新選組が相撲興行をやったこともある。

 ここには近藤勇・芹沢鴨他の碑がある。
バス停

「壬生寺道」

歩3分
中岡慎太郎

寓居跡

 中岡慎太郎は土佐藩を脱藩後、この土佐藩御用達の書林 「菊屋」(鹿野
 保兵衛宅)に身を寄せていた。
 (今は「あぶらとり紙店になっている。)
四条河原町

上ル東側
坂本龍馬

寓居跡

 薩長同盟を成立させた龍馬は幕府に狙われ、木屋町の材木商、酢屋寡兵
 方を宿舎として隠れ住んでいた。
 現在1階は「創作木工芸酢屋」、龍馬をかくまった2階は 「ギャラリー
 龍馬」となっている。
木屋町

三条下ル

一筋目西入
池田屋

 元治元年6月、新選組は古高俊太郎を捕らえ、長州・土佐  ・肥後など
 尊攘派が勧めていた幕府転覆の計画を白状させ、その陰謀が「池田
 屋」で行われていることを察知し、集まっ ていた宮部鼎蔵ら9名を斬
殺、23名を生け捕りにした。
 この「池田屋事件」をきっかけに長州藩は挙兵し、「禁門の変」(「蛤
 御門の変」) に突入する。
 その「池田田事件」の舞台となったのがこの旅館「池田屋」 。
 (現在は「池田屋はなの舞」という居酒屋になっている)
三条小橋

西入ル

北側
長州屋敷跡

 ここは尊王攘夷派の拠点となり、、「禁門の変」ではこの
 邸内から出た火が京都の町を焼き尽くす大火となった。
 今は「ホテルオークラ京都」となっており、建物の前には
 桂小五郎の像が立っている。
地下鉄

「京都

市役所前」

歩1分
桂小五郎

寓居跡

(旅館「幾松」)

 桂小五郎が後に妻の松子とな芸妓の「幾松」と過ごした 屋敷跡。
 新選組にたびたび襲撃され、その時の刀傷が残っている。
 明治23年から旅館として開業し、その後料理旅館となっていたが、
 2022年4月には閉店することとなった。
地下鉄

「市役所前」

歩2分
龍馬・慎太郎

遭難の地碑

(「近江屋」)

 以前隠れ住んでいた「酢屋」も幕吏の目が光るようになった ため、土佐
 藩出入りの御用商人、醤油商「近江屋」に移り、身を隠していた。
 慶応3年(1867年)11月15日ここ近江屋の2階で二人が会談中に刺客に
 襲われ無念の最期を遂げた。
 刺客は新選組とも「見回り組」とも言われているが真相は謎。
 (現在はコンビニエンスストアになっている。)
河原町

蛸薬師

下ル西側
土佐藩邸

跡 碑

 ここに江戸期から明治4年まで土佐藩、山内家の藩邸があった。
 当初、尊王攘夷派を弾圧したが、坂本龍馬などの尽力で薩長同盟が成立
 し、大政奉還を建白するに至った。
木屋町

蛸薬師

下ル西側
彦根藩邸跡

 山崎橋のたもとに「彦根藩邸跡」の碑が立っている。
 幕末の彦根藩主は、幕府の大老、井伊直弼。
 高瀬川と河原町通りの間にあって、敷地は727坪余りあった。
 北面・南面に高瀬川の「舟入」(高瀬舟の出入口)があった。
木屋町

三条

下ル西側
上京区
蛤御門

 正式名は「新在家御門」であったが、宝永の大火(1708年)で御所も
 炎上した際、それまで開くことの無かったこの門が、初めて開いたと
 いうことで、「焼けて口が開く蛤」に例えて「蛤御門」と呼ばれるよう
になった。
 元治元年(1864年)7月19日に勃発した「禁門の変」で最も激しい戦い
 が繰り広げられたのが、この「蛤御門」近辺。
 現在もこの門には、その当時の生々しい銃弾の跡が残っている。
地下鉄

「今出川」

すぐ
薩摩藩邸

跡 碑

 「同志社大学」の敷地一帯は、幕末に薩摩藩邸があったところ。
 藩主島津忠義の父、久光(1817〜1887年)は、文久2年(1862年)に
 上京して、  藩の尊攘過激派を粛清した。「寺田屋事件」)その翌年
 8月18日の政変や、元治元年の「禁門の変」では, 幕府や会津藩たち
 と連携して、長州藩を中心とする尊攘勢力を一掃した。
 その後坂本龍馬の立ち合いにより薩長同盟が成立したが、その会談の
 場所が ここ。
 「同志社大学」の校門の前に「薩摩藩邸」の石碑が立って いる。
地下鉄

「今出川」

すぐ
下京区
古高俊太郎

邸跡碑

 古高俊太郎は尊王攘夷派の志士ながら、湯浅嘉衛門と名乗り、ここで
 古道具  屋「枡屋」を営み、志士たちの活動を助けていた。
 それが新選組に知られることとなり、過酷な拷問に耐えかねて 自白した
 ことか ら「池田屋事件」へとつながっていった。
 この「池田屋事件」が無かったら明治維新は1〜2年遅れていたとも、
 逆にこの事件が明治維新を早めることになったとも言われている。
四条

河原町

上ル一筋目

東入ル
伏見区
寺田屋

 京都と大阪を結ぶ「三十石舟」の舩宿として発展し、幕末には坂本龍馬
 や薩摩 藩の定宿となっていた。
 「寺田屋事件」の際、龍馬が泊まっていた「梅の間」が当時のままの
 状態で保存 されている。 
京阪

「中書島」

歩5分