京都四次元の旅

<時代別・地区別ガイド>

<平 安 時 代>

<鳴くよウグイス平安京>

この時代は「都の建設」「東国(蝦夷)征伐」そして「怨霊に怯え続けた時代」であった・・・・・模様。

地 区
建 物
創 建
概      要
交 通
左京区
曼殊院
平安初期
最澄が鎮護国家の道場として比叡山山内に建てた堂が始まり。
1495年に伏見宮貞常親王 の子、慈雲が入寺して以来 門跡
寺院となった。
 1656年に現在の一条寺に 移った。

 庭園は小堀遠州の枯山水式庭園。
紅葉


霧島つつじ

椿

バス停

「一条寺

清水町」

歩20分
東北院
 桓武天皇が平安遷都の折に最澄の助言に従って弁財天を祀
 ったのが始まり。
 和泉式部にまつわる「軒端の梅」の話が謡曲に残って いる。
バス停

「真如堂」

歩10分
三千院
 最澄が比叡山東塔に結んだ仮堂が始まり。
 本堂の往生極楽院は1148年建立(重文)。

 池泉鑑賞式庭園「聚楽園」は江戸時代の作で秋には燃える

 ような美しい紅葉が見られる。

 阿弥陀三尊座像は1148年の作(国宝)。
紅葉


石楠花

紫陽花
京阪バス

「大原」

歩10分
吉田神社
859年
 藤原山蔭が平安京の表鬼門を守るために創建。
 吉田神道の根本道場。

 「徒然草」の作者、吉田兼好はここの神職だった。

 毎年の節分祭には50万人もの参拝客で賑わう。

バス停

「京大

正門前」

歩5分
金戒

光明寺
1175年
 法然が比叡山を下りて念仏道場を開いたのが始まり。
 幕末には、京都守護職・会津藩主松平容保の本陣として利

 用され、境内には松平藩士の墓がある。

 京都市民には「黒谷さん」 と呼ばれて親しまれて いる。


紅葉
バス停

「岡崎道」

歩3分
永観堂
863年
 空海の弟子の真紹が創建。
 本尊の「見返り阿弥陀」(重文)は、肩越しにうしろを振

 り返る珍しい姿。

 「紅葉の永観堂」とも呼ばれ、東山随一の紅葉の名所で、

 晩秋の頃には全山が錦に染まる。
紅葉
バス停

「南禅寺・

永観堂」

歩3分
鹿ケ谷

山 荘

 法勝寺の執行であった俊寛僧都の山荘で、後白河法皇を含
 めて、平家覆滅の謀議が重ねられていた。
 多田蔵人行綱の内通で、俊寛・成経・康頼らは鬼界ケ島に

 流される。

 後に他の二人は許されて帰洛したが、謀議の場所を提供し

 ていた俊寛のみ一人許されず、 この島で無念の最期を遂

 げる。  

 登り口の道端に「此の奥俊寛 山荘跡」の石碑が立ってい

 る。

 

バス停

「真如堂
前」

歩8分

(登り口の
碑まで)
祟道神社
859年
 「長岡京」造営の責任者である藤原種継暗殺事件の首謀者
 として、桓武天皇は弟の早良親王を捕らえて死に追いやる
 が、その後天皇母や皇后など身内の死が相次ぎ、更に「長
 岡京」 を洪水が襲い壊滅的 な被害をもたらした。
 これらを早良親王の祟りと考えた桓武天皇は、早良親王に

「祟道天皇」の尊号を贈ると共に、ここに神社を建てて祀っ

 た。

 
紅葉
京福電鉄

「三宅八
幡」

歩10分
平安神宮
1895年
 創建は平安時代のものではな く、明治28年に ”平安遷都
 1100年”を記念して建てられたもので あるが、平安京の姿を
 忍ぶのにふさわしいと思われるのでここに挿入した。
 祭神は桓武天皇と光明皇后。

 正面の門は平安京の「応天門」 を1/3に縮小したもの。

 社殿は「朝堂院」を5/8に縮小したもの。

 朱塗りの華やかな建物は、 王朝の大宮人の生活ぶりを想像

 させるのに充分。 

つつじ

花菖蒲

カキツバタ
バス停

「京都会
館・

美術館前」

歩5分
東山区
三十三間
1164年
 後白河法皇の勅願により 平清盛が創建。
 本堂には1001体の千手観音(国宝1体・重文14体)風神

 雷神像(国宝)、28部衆像(国宝)など安置。

 1249年に消失したが、1266年に再建、現存の本堂や仏像

 の多くは再建時のもの。

 柱と柱の間数が33あり、木造建築では世界一の長さ。

 毎年、成人式の日には「通し矢」(弓道大会)が催され

 る。

 


紅葉
京阪電車

「七条」

歩3分
泉湧寺
856年
 空海がこの地に草案を結んだのが始まり。

 当初、法輪寺という名であったが、境内から清泉が湧き出

 したことから「泉湧寺」と改めた。

 大門をくぐって左手に立つ 観音堂の本尊は等身大の楊貴妃

 観音像で、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈って香木で作ら

 せたもの。

 境内には「後水野尾天皇」を含め、25陵もの陵墓が鎮まっ
 ている。

バス停

「泉湧寺」

歩15分
世界遺産


清水寺
856年
 征夷大将軍坂上田村麻呂が長岡京の宸殿を移築して創建。

 寺号は、田村麻呂がこの地に鹿狩りに訪れた時、「清水」

 を求めて立ち寄った逸話から名づけられた。

 平安期、興福寺と延暦寺との争いに巻き込まれて、堂宇の
 殆どを消失し、現存の諸堂は 1633年に家光によって再興
 されたもの。
 


紅葉
バス停

「清水寺」

歩10分
知恩院
1175年
 法然上人がここで浄土宗の布教を始め、上人の歿後に 本堂

 が建ち秀吉や徳川幕府の庇護を受けて発展した。

 日本最大の山門は、信仰の邪心を取り除く三つの門<知恵

 ・慈悲・方便>がそのいわれという。

 本堂正面東よりの屋根のひさしに、左甚五郎が魔除けに置
 いた「忘れ傘」がある。


紅葉
バス停

「知恩院」

すぐ
青蓮院
1150年
 最澄が比叡山を開いた際、「坊」をいくつか建てたが、そ

 の内の一つが「青蓮院」の始まり。

 平安末期に比叡山からこの 地に移された。

 天明の大火(1788年)で皇居炎上の際、後桜町上皇 の仮

 御所となったことから、当地の地名である粟田をとって

 「粟田御所」とも 呼ばれている。

 相阿弥の作といわれる、粟田山を借景にした池泉回遊式
 庭園は後に小堀遠州が手を加えた名園。
霧島つつじ
地下鉄

東西線

「東山」

歩10分
六波羅

密 寺
951年
 ここ六波羅一帯は、その昔は「鳥葬の地」であり、人の

 ”しゃれこうべ”が散乱していたことから「髑髏(どくろ)

 が原」 と言われていた。

 やがてここにも人が住むようになってきたことから「轆轤

 (ろくろ)が原」と転訛し、今でも「轆轤(ろくろ)町」

 という 町名が残っている。

 この辺り一帯には平家一門が屋敷を構えていた。

 「六波羅蜜寺」は空也上人(醍醐天皇の第二皇子)が悪疫

 退散を念じて創建。

 口から6体の化仏を吐き出している空也上人の木造(重文)
 や、清盛の木造の他、運慶・湛慶の自作の座像がある。

バス停

「清水道」

歩7分
六 道

珍皇寺
平安初期
 京の都の東、ここ鳥辺野は死者を葬り「鳥葬」にする場所

 であった。

 その「生と死」の接点がここ「六道の辻」であり、そこに

 「六道珍皇寺」が建っている。

 かっては、人が死ぬとこの「六道の辻」まで死者を運ん
 で、そこの僧に引導を渡してもらい、そこから「取辺野」
 に死者を葬ると、後ろも見ずに一目散に逃 げ帰った
 という。

バス停

「清水道」

歩5分
北区
今宮神社
994年
 京の都に流行した疫病を鎮めるために神殿を造ったことか

 ら始まる古社。

 須佐之男命を祀る。

バス停

「今宮神
社」

すぐ
上京区
蘆山寺
938年
 慈恵大師良源が船岡山に創建した与願金剛院が始まり。

 現在地(「京都府立鴨沂高校」の北)には1571年に移

 転。

 紫式部の住居跡といわれ 「源氏物語」などの作品が書かれ

 たと伝えられる。

 本堂には紫式部関係の資料が展示されている。

 本堂と尊牌殿は仙洞御所の一部を移したもの。

バス停

「府立医大

病院前」

すぐ

晴明神社
1007年
 一条天皇の勅願により陰陽師安倍晴明を祀るため、晴明の

 邸宅跡に創建。

 御神灯や絵馬に描かれている星形の神紋(セーマン)は陰

 陽道で用いる祈祷呪符。

 晴明が作った独特のもので「晴明桔梗印」とも呼ばれ、
 天地五行を形どり、災いを除けて清浄にする力を発揮す
 ると言われている。

バス停

「一条

戻り橋」

すぐ
一 条

戻り橋

 918年文章(もんじょう)博士の三善清行が危篤に なった

 と連絡を受けた息子の浄蔵は、熊野詣の途中を引き返

 して帰京し、この橋で葬列に出会い、浄蔵が棺に取りす

 がって神仏に祈ったところ、父が蘇生し言葉を交わすこ

 とが出来たという言い伝えがある。

 また、この橋を渡ると、後日また戻って来られると言われ
 ている。

バス停

「一条

戻り橋」

すぐ
北 野

天満宮
959年
 左大臣藤原時平に妬まれ、大宰府(九州)に左遷され、

 そこで 903年に不遇のうちに生涯を終えた、菅原道真

 の魂を慰めるため に、藤原師輔が社殿を造営。

 学問の天才だった道真にあや かろうと、お参りする人

 が絶えず、 学問の神様として知られるようになった。

 秀吉が<北野の茶会>を催した地としても知られる。
バス停

「北野

天満宮」

すぐ
平野神社
794年
 桓武天皇が平安遷都に先だって大和から移した神々を祀る
 古社。
 4月10日の<桜まつり>では、花山天皇が行った行事に則
 り、満開の桜の下を神輿や花山車 が練り歩く。
バス停

「衣笠高
前」

すぐ
京都御所

 本来の御所が鎌倉時代に 消失し、里内裏として「東洞院土
 御門 殿」が充てられて以来現在に至っている。
 平安京の内裏そのものではないが、主要な場所は王朝その
 まま に再現されている。
 「清涼殿」は幕末期、「紫宸殿」は安政2年のもの。


紅葉
地下鉄

「丸太町」

すぐ
大極殿跡

 平安京の大内裏大極殿があった所。
 876年・1058年と二度の火災に遭い、1177年に三度目の
 全焼以  来、再建されることなく放置された。
 千本丸太町バス停右側の入口に「大極殿跡」の石碑が立っ
 てお り、その路地を入って行くと、小さな公園があり、
 その中央に「平安京大内裏大極殿址」の石碑が立っている。

バス停

「千本

丸太町」

すぐ
上 御霊

神 社
794年
 祭神は早良親王・井上内親王・他戸親王をはじめ13柱。
 桓武天皇が平安遷都の折に、早良親王らの怨霊を鎮めるた
 めに創祀したものと伝えられる。
 「応仁の乱」の戦端が開かれたところとしても知られる。

地下鉄

「鞍馬口」

歩5分

中京区
朱雀門址

 京の都の入り口「羅城門」からまっすぐに北に伸びる 「朱
 雀大路」(今の「千本通り」)の北の端にこの 「朱雀門」
 が立っており、これが大内裏への入口となっていた。
 1227年に大内裏が炎上した 時、この「朱雀門」も焼け、
 以来二度と再建されることはな かった。
 JR「二条駅」から千本通りを北へ約200m行くと東側に
 「此附近平安大内裏朱雀門址」の碑が立っている。

JR

「二条」

歩3分
誠心院
1027年
 関白藤原道長が和泉式部の晩年を哀れみ、道長の娘・彰子
 が法成寺の東北院内に一庵を和泉式部に与えたのが始ま
 り。
 境内の墓地に和泉式部の供養塔がある。
 謡曲「東北」に謡われた和泉式部にまつわる「軒端の梅」
 がある。

寺町

蛸薬師

上ル
壬生寺
991年
 園城寺(三井寺)の快賢僧都によって創建。
 セリフのないユーモラスな動きで教えを説く無言劇<壬生
 狂言>は700年以上の伝統をもち、4月21日〜29日と10月
 中旬に上演される。
 境内の壬生塚には、新選組の芹沢鴨・平山五郎などの墓が
 ある。

阪急

「四条大
宮」

歩5分
右京区
大覚寺
876年
 嵯峨天皇の離宮の跡地に建立された真言宗大覚寺派の
 大本山。
 鎌倉時代に後嵯峨上皇・後宇多法皇が、ここで院政を行っ
 たので「嵯峨御所」とも呼ばれていた。
 隣の「大沢の池」は、嵯峨天皇が離宮を造営した際、中国
 の<洞庭湖>っをモデルに造らせた周囲1kmの人造湖。
 中秋の名月には龍頭鷁首という一対の舟を浮かべて、優雅
 な「観月の夕べ」が催され、平安の風景を実感させてくれ
 る。


紅葉


嵯峨菊
バス停

「大覚寺」

直ぐ
世界遺産


仁和寺
888年
 光孝天皇の勅願寺として発願され、888年に宇多天皇が完
 成された。
 宇多天皇が醍醐天皇に位を譲って仏門に入り、仁和寺に
 「御室」と呼ばれる法務所を設けられたことから、このあ
 たり一帯を御室」と言われるようになった。
 平安中期に三条天皇の皇子が入寺して以来、代々皇族出身
 の法親王が住職となり、門跡寺院として諸宗各本山の最
 上位を占めた。
バス停

「御室

仁和寺」

すぐ
祇王寺

 大覚寺塔頭の尼寺で法然上人の弟子良鎮が創建した  往生
 院が前進。
 廃寺となっていた往生院跡に、明治28年「祇王寺」と して
 再建したもの。
 かって平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王・祇女、 清盛に
 捨てられ、母と共に剃髪して嵯峨のに隠棲、 その後に、これ
 も、かって清盛に寵愛を受けた仏御前 も加わり、4人で仏
 門に身をおいたという話に因んで 建てられた寺。
紅葉

化 野

念仏寺
900年
 約1100年前<風葬の地>であったここ「化野」に 散在し
 ていた野ざらしの無縁仏を、弘法大師がが 見かねて
 「如来寺」を建てて、そこに葬り供養したのが 始まり。
 境内に立ち並ぶ8000体もの石仏・石塔は、その昔「化野」
 一帯に葬られていた人々のお墓。
 毎年8月23・24日の夜には、各石仏にローソクを供えて
 の<千灯供養>が行われる。


紅葉
バス停

「鳥居本」

歩3分
二尊院
834年
 嵯峨天皇の命を受けて円仁が創建。
 寺名の由来は「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二尊を本尊
 として いることからきている。
「応仁の乱」の折、堂宇伽藍が全焼したが、その 30年後に
 本堂・唐門のみ再建された。


紅葉
バス停

「嵯峨

小学校前」

歩12分
野宮神社
809年
 伊勢神宮へ赴く斎宮に選らばれた皇子が、3年間 ここに
 籠って身を清めたという古社。
 源氏物語の「賢木の巻」の分かれの場の舞台と なった所。
 黒木(皮をむいてない木)の鳥居が珍しい。
 現在は縁結び・子宝安産の神として信仰を集めている。

京福電鉄

「嵐山」

歩5分
小督塚

 小督局(こごうのつぼね)は、宮中一の美人で <琴の名手
 >であり、あるとき高倉天皇のお目にとまり、側室として
 迎えられた。
 しかし、高倉天皇に中宮として娘の徳子を出している
 平清盛に睨まれ、、嵯峨野に身を隠してしまう。

「渡月橋」

(嵐山)

そば
車折神社
1189年
 平安末期の学者<清原頼業>を祀っている。
 5月の第三日曜日に、嵐山の大堰川を舞台に王朝の舟遊びを
 再現する「三船祭」は、898年宇多上皇が行われた舟遊び
 が起源。
 芸能の神様として信仰が厚く、有名タレントや歌舞伎
 役者・映画俳優の参拝が見受けられる。

京福電鉄

「車折」

すぐ
西京区
善峯寺
1029年
 源算上人により開山された。
 後三条天皇が安産を祈願して白河天皇が産まれたことから
 朝廷の信仰を集めた。
 応仁の乱で殆どが消失したが、徳川綱吉の母<桂昌院>の
 帰依により、本堂を始めその他の諸堂が再建された。
 桂昌院お手植えの<遊竜の松>は樹齢600年の<五葉松>
 で天然記念物。

紅葉


牡丹
阪急バス

「小塩」

歩30分
大原野

神 社
850年
 藤原氏が、氏寺の春日大社(奈良)の社霊を勧棲して
 創建。
 狛犬の代わりに牡鹿・雌鹿を配した社殿は、春日大社を
 模した<春日造り>。

紅葉


牡丹
バス停

「南春日」

歩10分
十輪寺
850年
 平安時代の歌人で「伊勢物語」の主人公の在原業平が隠棲
 したと伝えられる寺。
 秋には<なりひら紅葉>が美しい。

紅葉
バス停

「小塩」

歩3分
南 区
世界遺産


東 寺
796年
 桓武天皇が平安京造営時に国家鎮護の目的で、羅城門を挟
 んで東西に建てられた官っ寺の一つ。
 823年、弘法大師に「東寺」を賜り、真言密教の 道場とし
 て講堂が建てられ、883年に五重の塔が 建てられた。
 講堂の21体の仏像は,殆どが平安期のもので、20体が
 国宝。
 宝物館には、羅城門の楼上に安置されていたと伝わる
 「兜跋毘沙門天像」(国宝)がある。

バス停

「京都駅

八条口」

歩5分
西寺跡

 羅城門を挟んで東寺と相対していた。
 平安中期(990年)に消失し、鎌倉時代には塔も消失 して
 以来再建されなかった。
 羅城門跡から西へ400m程行くと「唐橋小学校」が あり、
 その北側の「西寺公園」に<史跡西寺跡> の石碑が
 立っている。

バス停

「西寺跡」

歩3分
羅城門跡

 「羅城門」は平安京の入口で、九条大路に面して 建ち、
 ここから真っ直ぐ北に向かって朱雀大路が 伸び、大内裏
 の正門である「朱雀門」まで続いて いた。
 平安京のが衰退してからは「羅城門」も荒廃し、楼上は
 盗賊たちのすみかとなっていた。
 980年の台風で倒壊して以来、一度も再建されて いない。
 千本九条の北側に児童公園があり、その中に 「羅城門址」
 の石碑が立っている。
 

近鉄

「東寺」

歩10分
山科区
勧修寺
900年
 後醍醐天皇が生母の菩提を弔うために創建。
 代々、法親王が入寺した門跡寺院で「山科門跡」と 呼ば
 れた。
 本尊の千手観音は後醍醐天皇の等身大とのこと。
 境内の「勧修寺 灯篭」は水戸光圀の寄進で、「雪見灯篭」
 「水戸灯篭」とも言われている。
 睡蓮が見事な「氷室の池」を中心に広がる<氷池園>は、
 平安 時代の様式を残す 「泉舟式庭園」。

つつじ


花菖蒲

カキツバタ
地下鉄

「小野」

歩5分
隋心院
991年
 小野小町が晩年に移り住んだ寺。
 「化粧井戸」は小野小町が使用したもの。
 小町に魅せられた深草の少将が九十九日通いつめ、百日目
 に想いを遂げることなく亡くなったと いう悲恋伝説が残って
 いる。
 応仁の乱で炎上後、1599年に再建された。
紅葉
伏見区
世界遺産


醍醐寺
874年
 理源大師が山頂に草庵を結んだのが始まり。
 応仁の乱で五重の塔を除く大部分の堂宇が消失 したが、
 秀吉の援助を受けて再興。
 秀吉が晩年に盛大な<醍醐の花見>したのは有名。
 2008年8月24日、上醍醐(山頂附近)の観音堂が落雷と
 みられる火災により消失し、仏像数百体が消失した。
地下鉄

「醍醐」

歩10分
長岡京市
長 岡

天満宮

 祭神は菅原道真。
 このあたり一帯は道真の所領であったところで、道真が
 左遷されて九州大宰府に赴く時に立ち寄って名残を惜
  しんだ。
 京の都の戻れずに無念の死を遂げた後、一族が当地に廟
 を建てたのが始まり。
 創建年は不明であるが、応仁の乱で消失の後、明応7年
 (1498年)に再建したとの記録がある。
 現在の社殿は昭和16年(1941年)に平安神宮の社殿を
 拝領移築したもの。


つつじ
阪急

「長岡

天神」

歩10分
宇治市
世界遺産

平等院
1052年
 藤原頼道が父道長の別荘を寺院に改め「平等院」 としたの
 が始まり。
 本尊の阿弥陀如来像は、藤原時代の名仏師定朝の作で
 国宝。
 大半は戦乱で消失したが、鳳凰堂は当時の華やかさを物語
 っている。

紅葉


つつじ
JR・京阪

「宇治」

歩10分
八幡市
石清水

八幡宮
859年
 九州の宇多八幡宮を勧請して創建。
 相次ぐ戦乱で消失し、現在の社殿は家光の再建による
 もの。
  祭神は応神天皇・神功皇后・姫大神。
 京の都を危うくする外敵の退散を祈ることが信仰の目的で
 あっ た。
 参道の長い石段の途中に<石清水>と言われる湧き水が
 あり、これが地名の由来。
 エジソンの<炭素電線>に使われた竹の繊維は ここの竹で
  あった。

京阪

「八幡市」

からケ−ブ



次ページ鎌倉時代