京都四次元の旅

<時代別・地区別ガイド>

<室 町 時 代>


    平安時代・鎌倉時代などに比べて、この「室町時代」は、何んとなく印象が弱く 時代のイメージが掴みにくい。

   それは、この室町期の230年余りが、南北朝の戦乱や応仁の乱を経て戦国下剋上の大波に飲み込まれながら滅び去る

       というように,政権が脆弱で常に安定しなかったためだったのでしょうか?

    しかし、その一方で<茶の湯><生け花><連歌><能><狂言><水墨画>  <座敷>  <床の間><庭>

   などの、日本の伝統文化の半ば近くを、この時代が創り出したということは驚きです。

               

地 区
建 物
創  建
概  要
交 通
左京区
世界遺産

銀閣寺
1482年
 八代将軍足利義政(1436〜1491))は、妻の日野
富子との折り合いが悪く、義政の逃避先として
東山に建てた山荘の「東山殿」がその前身。
 庭の北にある方丈「東山殿」は、<北の間>
<南の間>とも当時のまま。
 義政の持仏堂であった「東求堂」には、四畳半茶室
の原型と言われる「同仁斎」があり、義政はここで
山荘を訪ねてくる客と交流し、この東山山荘を中心
とする「東山文化」は”わび・さび”といった幽玄の
境地を生み出し、<茶の湯><生け花>をはじめ
日本文化発展の源とな った。
 義政の歿後、その遺志により「慈照寺」と改めら
れた。



紅葉
バス停

「銀閣寺前」

歩6分
上京区
相国寺
1392年
 足利義光が再建。
 応仁の乱で消失したが、1605年に豊臣秀頼が
 再建。 
 天井に描かれた「鳴き竜」(狩野光信)が有名。


紅葉
地下鉄

「今出川」

歩5分
西 陣

 西陣と言えば「西陣織」を思い浮かべるが、もとは
 「応仁の乱」の折、西軍の総大将の山名宗全が本陣
 とした自宅がこの辺りにあったことから、この辺り
 を「西陣」と呼ばれるようになった。
 戦火が終わったあと、この辺りに職工を集めたの
で、この町に織物が栄えるようになった。
 今出川通り堀川上ル(北へ行くこと)に「山名宗全
邸宅跡」の立札がある。

東西は寺の内
通り〜出水通
り」


南北は堀川通り
〜御前通り」


で囲まれた

一帯
世界遺産

金閣寺
1397年
 三代将軍足利義満(1358〜1408)が西園寺公経の
  北山山荘を買取り、諸国の大名に命じて奇石を
 集めて庭を造り、別荘「北山殿」とし、義満の歿後
 は、その遺命により「鹿苑寺」と改められた。
 三層の楼閣の初層は「寝殿造り」(藤原期)、次層
 は「武者造り」(鎌倉期)、そして頂層は「禅宗
 様」になっており、金箔は次層と頂層のみに貼ら
 れている。 
 昭和25年7月、一人の青年僧の放火により焼失し、
 現在の建物は昭和30年に再建されたもの。
バス停

「金閣寺前」

すぐ
大徳寺
1319年
 室町期より少し前の建物だが、「応仁の乱」で荒廃
 したのを、一休和尚が再建したもの。
 後に豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行ったり、千利休
 が自分の木造を置いた為に秀吉から切腹を命じられ
 たという山門「金毛閣」がある。
紅葉
バス停

「大徳寺前」

すぐ
北 区
等持院
1341年
 足利尊氏(1035〜1358)が創建した「北等持寺」が
 前身。
 尊氏の歿後、墓所となってから「等持院」と改めら
 れ、以後、足利氏の菩提寺となり、初代の尊氏か
 ら15代の義昭まで、歴代の木造(5・14代を除く)
 が霊光殿に安置されている他、歴代の遺髪塔、
 義満の額(「等持院」)や尊氏の墓がある。
紅葉

さつき

芙蓉
バス停

「立命館大」

すぐ
右京区
世界遺産

天龍寺
1339年
 足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立。
 建築費用調達の名目で貿易船「天龍寺船」を創設。
 建物は8回も焼け、現在の諸堂は明治の再建だが、
 嵐山近くの「亀山」を借景にした庭園(夢想国師の
 作)は原型に近い。
 「鯉は池中千年を経れば天に登って龍となる」と言
 われ、その天に登る口を<登龍門>と言うが、
 その<登竜門>が、ここの池の滝口にある。


紅葉
阪急

「嵐山」

すぐ
世界遺産

龍安寺
1450年
 細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受けて創建。
 「枯山水の石庭」で有名。
 庭を囲む塀の低さが庭を広く見せる効果を発揮して
 いる。

紅葉
バス停

「竜安寺前」

すぐ

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