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京都四次元の旅

「時代別・地区別ガイド」



<平安時代以前の京都>


 「奈良時代」の次は「平安時代」だと思われがちですが、平安時代の前に「長岡京時代」がありました。

 桓武天皇は、奈良の強い仏教勢力から逃れるように、平城京の北方40kmの長岡の地に都を移したのでした。

 しかし、この「長岡京では、度重なる洪水・疫病・飢きんなどが続き、都はなかなか完成しませんでした。

 それに加えて、かって桓武天皇があらぬ疑いをかけて次々と抹殺してきた政敵の”怨霊”たちに怯える日々が続いた為、桓武天皇はついに建設半ばの長岡の都を捨てて、山城の国に再び遷都したのでした。

 ここでは、その<長岡京>を含め、平安時代が始まる以前の京都を訪ねてみましょう。

地 区
建物
創建
概    要
写真
交通

北 区

世界遺産


上賀茂神社

678年

神代の昔、この地を支配していた豪族
「賀茂氏が、社殿の北北西にある<神
山>に降臨した「賀茂別雷神(カモノワ
ケイカズチカミ)を氏神として祀ったのが

始まり。

天武天皇6年(678年)に現在の社殿が
造営された。

毎年54月15日に催される<葵祭>は、
上賀茂神社と下鴨神社両社の祭礼
で、6世紀に蔓延した疫病を鎮めるため
に天皇が勅使をつかわして「鴨の神」の
祭礼を行ったのが派所まり。


バス停

「上賀茂

神社前」

からすぐ

左京区

世界遺産


下鴨神社

紀元前

崇神天皇7年(紀元前20年)に神社の
瑞垣の修造されたとの記録があり、それ
以前の創建と思われる。

古代の豪族<賀茂氏>の始祖を祀る
京都最古の寺で、平安時代は王城鎮
護の社として崇められ、歴代皇女が斎
王となった。

「葵祭」は下鴨神社と上賀茂神社両社
の祭礼。

紅葉

京阪

「出町柳」

歩5分

鞍馬寺

770年

鑑真の弟子鑑禎が霊夢に触発されて毘
沙門天を安置したのが始まり。

本堂の左にある光明心殿に祀られている
のは何んと650万年前に金星から、人類
救済の使命うを帯びて降臨したという護
摩魔王尊。

また、牛若丸が修行が修行した地でもあ
る。


京福電鉄

「鞍馬」

歩30分

寂光院

594年

594年聖徳太子が用明天皇の菩提寺と
して創建。

平清盛の娘で安徳天皇の母でもある建
礼門院が壇ノ浦の戦いで、源氏の兵士
に海から助け上げられて以来、ここで平
家一門と我が子安徳天皇の菩提を弔
い、念仏三昧の日々を過ごし、1203年
56才でこの世を去った。

本堂は2000年(平成12年)に放火により
焼失し、現在の建物は5年後に再建され
たものであるが、今では落ち着いた雰囲
気を漂わせている。


紅葉

京阪バス

「大原」

歩15分

東山区

八坂神社

656年

高麗人よりの渡来人が、この地に牛頭
王皇を祀ったのが始まり。

祭神はスサノオノミコト。

朝廷の信仰を受け、疫病災難退散の神
として崇めれられ、祇園祭の鉾もこうして
出来た。

本殿は1665年の再建。

枝垂桜

京阪

「四条」

歩5分

山科区

毘沙門堂

703年

文武天皇の勅願により、僧行基によって
御所の北側に開山。

1665年に現在の山科の地に再建。

山科盆地を守護すると言われる本尊の
毘沙門天は、最澄が自ら彫ったものと伝
わる。

本堂や唐門には、日光東照宮」とよく似
た装飾が施されている。

宸殿前庭の樹齢100年を超える枝垂桜
は見事。

2008年10月、本堂に安置されていた「毘
沙門天」が何者かによって盗まれた。

JR・京阪

「山科」

歩20分

右京区

広隆寺

603年

山城最古の寺院。

「四天王寺」「法隆寺」と共に、聖徳太
子の建立の「日本七大寺」の一つ。

秦川勝が聖徳太子から仏像を賜り、こ
れを本尊として建立。(日本書紀)

秦氏族は、応神天皇16年に日本に帰
化したのち、養蚕・機織業を中心に、大
陸から先進文化を取り入れ、当時の地
方産業の発展に務めた。


つつじ

京福電鉄

「太秦」

すぐ

西京区

勝持寺


(花の寺)

680年

役行者が開き、最澄が堂宇を再建。

当初は「大原寺」と言われたが、足利尊
氏が立ち寄った謂れから「勝持寺」と改
名。

平安期に歌人・西行が隠棲した寺。

西行自身の手植えと伝わる<西行桜>
が残る。

春には約400本の桜が、境内を覆い尽く
すことから「花の寺」とも呼ばれている


紅葉

市バス・

阪急バス

「南春日
町」

歩15分

長岡京市

乙訓寺

620年頃

推古天皇の勅願により聖徳太子が開い
たと伝えられる古寺。

寺宝の「毘沙門天像」(重文)は空海が
彫ったものとも伝えられる。

早良親王が一時幽閉された寺。

牡丹


山吹

阪急バス

「今里」

歩2分

向日市

長岡京

大極殿

跡碑


784年(延暦3年)桓武天皇が奈良から
この地に都を移した。

大極殿跡碑は周囲を生垣で囲み、史跡
公園になっている。

内裏跡も一部公園に指定されている。

東西4.3km・南北5.3kmと、平安京に匹
敵する規模であった。


阪急

「西向日」

歩10分


<鞍馬寺で妖怪に出会った話>


京都は観光の町として賑わっているが、それは昼間のこと。

陽が落ちて夜の帳があたりを覆いつくすと、様子は一転して魑魅魍魎が跋扈する魔界へと変わる、と誰かが言っていた。

平安の昔から明治維新まで、京都は常に政治の中心にあって、その間政争に敗れて無念の死を遂げた者たちが、怨霊となって彷徨い、勝ち残った者たちは、風の音や雷・洪水・疫病などはみんなその怨霊の祟りと恐れおののいた。

 

 20数年前のこと、京都での同窓会に出かけた。

同窓会の開始は18時からであったので、その前に久しぶりに「鞍馬寺」に寄ってみた。

本殿金堂の横に貴船神社へと抜ける道がある。

昔、京都に住んでいた頃、この道を通って貴船まで行ったことがあったので、思わずこのまま行こうかと思ったが、この道の途中には木の根が大きく地面から突き出している所が続き、革靴では歩きにくいのと、既に16時になっているので、今からこの道を行けば途中で日没となり、真っ暗闇で道に迷って同窓会間に合わなくなる恐れもあることから、やはり止めようと思った瞬間、私のうしろから耳元で、

「一緒に行って頂けませんか?」

と、若い女声のささやくような声がした。

びっくりして振り返ると、すぐうしろに若い美人女性が立っていた。

思わず一緒に行きたい衝動にかられたが、ふとその女性の足元を見るとサンダル履きで、とてもこの山道を貴船まで歩けるようには思えない。

もし、この女性と貴船への道を歩き始めたら、必ず途中でとっぷりと日が暮れてしまうのは目に見えている。

一瞬迷ったが、やはりお断りして同窓会へ直行した。


もし、その女性と同行していたら、途中で日が暮れた途端に、その女性の顔が鬼の形相に一変し、暗闇に引きずり込まれて食い殺されていたのではないかと今でも思っている。

<不審な点>

 1.若い女性が一人で、寂しい山道を鞍馬から貴船へ抜けるのは危ない。

 2.サンダル履きではとても無理。

 3.16時を過ぎてから貴船に向かえば、途中で日没となり貴船まで辿り着けるかどうか疑問。

以上の理由から、やはりその女性はこの世のものではなく、妖怪だったのではなかったかと思っている。

そう言えば、若い女性とまでは覚えているが、その顔は全く思い出せない。

もしかして、顔は無かったのではないかも知れない・・・・・・・・・。